卒業文集で小説を書くことの楽しさを知った
――小説を書き始めたきっかけは何だったのでしょう?
結城 最初に小説を書いたのは、中学3年生の時の卒業文集です。文集には何を書いても良いと言われたので、ちょっとしたふざけ心で原稿用紙600枚くらいの『バトル・ロワイアル』(※高見広春の小説)のパロディー小説を書いたんです。
――600枚!ものすごいボリュームですね。
結城 サッカー部の生徒が開成高校への進学権1枠をかけて、校舎内で戦闘を繰り広げるというくだらない内容だったのですが、それがすごく評判になって。僕以外にも、文集にファンタジー小説を書いた生徒もいたので、卒業文集は分冊して2冊になったんです(笑)。
――自分で書いた小説が評判になってどう思いましたか?
結城 小説の中のサッカー部の生徒は、実在の同級生を登場させていたので、クラスメイトだけでなくサッカー部の保護者の方も読んでくれたんです。「○○くんのシーンがかっこよかった」「うちの子のシーンが情けなすぎる」など、いろいろな感想をもらったことで、自分が書いたものを人が面白がってくれて反応が返ってくることが楽しく感じました。将来、小説家になってみるのもありかも、と思った瞬間でした。
――文章を書く、という結城さんのルーツはどの辺にあるのですか?
結城 もともと頭の中で空想したり、物語を考えたりするのは好きなほうでした。子どもの頃も、親が読み聞かせてくれた本の内容を自分なりにパロディーにして絵を描いたりしていたんです。何かしらの創作のモチベーションは生まれつきあったのだと思います。でも、僕は絵が上手い訳でもないし、映画監督になろうにも、何をやっていいのか分からない。そう考えると、できることが小説だったんです。小説は紙とペンさえあれば書けるし、年も関係ない。本も人よりは読んでいたほうなので、それなら小説をやってみようかな、と。
――中学校の卒業文集を書かれた後は、コンスタントに書き続けていらっしゃったのですか?
結城 だいぶ期間が空いて、大学卒業間際に「第2回新潮ミステリー大賞」に応募した長編が、文集に次ぐ2作目になります。文集を書いたのが15歳で、ミステリー大賞に応募したのが23歳なので、8年ほど空いています。
――文集からブランクがあって、再び小説を書かれたきっかけは何だったのでしょう?
結城 大学の同級生である辻堂ゆめさんが「このミステリーがすごい!」で優秀賞を獲られてデビューが決まったという話を聞いて、めちゃくちゃ奮起しました。
――「辻堂ショック」と呼ばれている出来事ですね。
結城 それほどびっくりしたんです。友人といつも通り学食でだべっていた時に、「俺らの同級生が『このミス』というのを獲ってデビューするらしいよ」と聞かされて「え?俺たちの同級生が?」と思わずラーメンを食べる手が止まりました。自分は、何となく小説家もありだな、と思っているだけで何もやっていなかったのに、本当に優秀賞を取ってデビューした同級生がいることはあまりに衝撃的でした。
――当時、東京大学内では小説家を目指して書かれている方はたくさんいらっしゃったのですか?
結城 文芸サークルに入っている人は多かれ少なかれそういう思いがあったかもしれません。少なくとも、僕と新川帆立さん(※東京大学出身の『このミステリーがすごい!』大賞受賞作家)は「辻堂ショック」を受けたことで、小説家になるというモチベーションを抱いていたので、他にも一定数はいるんじゃないかと思います。
――小説を書くにあたって、大学での経験が生きていると思うことはありますか?
結城 直接的なものはあまりないですが、大学で出会ったいろいろな人たちが仕入れてくる面白い話は、かなり作中に紛れ込ませています。東大ならでは、というよりは、普通の大学生らしく学生生活を楽しんでいる中で経験してきたものが作品に生きていると思います。
――新刊『#真相をお話します』の一篇目にある「惨者面談」はご自身のアルバイト経験をもとにしていらっしゃるそうですね。
結城 中学受験を考えているお子さんのお宅に行って家庭教師の営業をするというのは、まさに自分が大学の4年間やっていたアルバイトです。家庭教師自体はほぼ経験がないのですが、営業で伺ったお宅で体験授業をした経験は誰よりもあります(笑)。
――たくさんの経験から、センセーショナルな短編が生み出されたのですね。家庭教師の「営業」というのはなかなか珍しい気がします。
結城 初めの何件かだけ先輩について行って、あとは「次からは一人で営業してこい」と放り出されたので「ええ!?」という感じでした。慣れるまでは大変な部分もありましたが、歩合制で頑張れば頑張っただけ返ってくるバイトだったので、やりがいがありました。