夢は大人になってから決めればいいと思っていた
――キャリアについてお伺いします。高校時代に目標のようなものはありましたか?
矢井田 「いやいや、今まだ子どもだから。大人になったら決めるから!」と思ってました。今思えばすっごく可愛くない子どもです(笑)。小学生の頃も、将来の夢を書かなければいけない時は、パン屋さんやアナウンサーとか、隣の人の夢をカンニングして書いてました(笑)。
――高校時代に打ち込んでいたことを教えてください。
矢井田 友達との時間、テスト勉強……。高校生活を最大限に楽しもうと思っていましたね。部活動ではバレー部のマネージャーをしていたんです。中学生の頃は女子バレーボール部で選手だったんですが、練習がめっちゃ厳しかったし、あんまり球技に向いてないなってうっすらわかっていたのもちょっとつらかった。でも高校でもバレーボールには携わっていたかったので、似たようなことを考えていた元バレー部の友達と一緒に男子バレー部のマネージャーになりました。そんなに献身的なマネージャーではなかったけれど、役に立てるのはうれしかったですね。最大限まで薄めたポカリ(スウェット)を作って運んだり、ボールの管理をしたり、スコアをつけたりしていました。
――矢井田さんを語るうえでギターは欠かせない存在です。出会ったきっかけを教えてください。
矢井田 学校の休み時間に、エレキギターをアンプにつなげずに練習していた男友達が普段よりも何倍もカッコよく見えて、「きっとギターに魔法が宿ってるんだ!」と思ったんです。両手がバラバラに動いてる感じがすごく素敵で「できるようになりたい」って思いました。何か新しいことを始めたいと思っていたタイミングでもあったので、その日の帰り道にアコースティックギターを買いました。それから独学で没頭して練習していきました。
――音楽の方向性はどのように決めていきましたか?
矢井田 まずはアコースティックギターを弾けるようになりたくて、フォークソングのコードが載っている分厚い辞書みたいな雑誌を買いました。父の影響もあって70年代フォークソングをたくさん聴いて育ったので、トワ・エ・モワさんの「誰もいない海」とか欧陽菲菲さんの「ラヴ・イズ・オーヴァー」など、知っている曲のコードを練習しながら、弾ける曲を増やしていった感じです。ただ、友達にも言ってなかったし、家族がうるさがったら公園で一人で練習したりしていました。
――その頃から弾き語りをされていたのでしょうか?
矢井田 そうですね。歌うこと自体は小さい頃から好きだったので、ギターを持ったことによって歌うことと弾くことが一致した感じでした。
――人前に出て何かをするということについてはいかがでしたか?
矢井田 大学に入ってアコギで弾き語りをした時、「今までの人生の中で一番楽しい!」って思えたんです。それまでも習い事はしていましたが、どこか「やらされてる感」があったのに、ギターの弾き語りは「一生できる」って直感で思えた。ただ、人前に出ることと弾き語りをすることはつながっていなくて、そういう意味では、いまだに勉強中ですね。
――矢井田さんの歌唱スタイルは唯一無二のものだと思いますが、それは最初から定まっていたのでしょうか?
矢井田 幼い頃から演歌の練習も熱心にしていたので、「津軽海峡冬景色」「夜桜お七」などの、声がひっくり返る、「こぶし」のようなものが自然と身についていたと思うし、曲を書くうえでも反映されていると思います。演歌だけでなく、フォークソングとか、大学生になってから聴くようになった洋楽など、そういったものがいろいろ混ざっていった感じです。
――オリジナルの曲を作るようになったきっかけを教えてください。
矢井田 フォークソングやアラニス・モリセットの曲のコードを弾いていたら、全然知らないメロディーで歌っていることに気づいて、「あ、この感じで作ってみよう」と思ったのがきっかけでした。歌詞を書くのも好きで、日本語で書くこともあれば、デタラメな英語で、いいなと思うメロディーを書いて、後からそれに合う英語や日本語をはめ直すような作り方も好きでした。