脚本家・倉本聰との出会いで仕事観が変わった

――今回のプロジェクトは“コロナに負けない”というテーマもあれば、表現者への支援や成長の場としての意味合いもあります。清野さんにとって、表現の変化や成長のきっかけになった経験はありますか?

清野 「やすらぎの刻」(テレビ朝日系)というドラマに出させていただいたときに、脚本家の倉本聰さんに出会って、自分の仕事観が変わりました。それまでも一生懸命やっていたんですけど、どうやって役作りをしたらいいのか、どう向き合ったらいいのかわからなくて。倉本さんはキャラクターが生まれたときからの年表を書いて台本を作ると聞いて、そういう向き合い方もあるんだと知りました。そこで自分の芝居に対する気持ちが変わりました。

――清野さんも同じように、役の年表を作られたりしたのでしょうか?

清野 一時期は真似して年表を作ってみたこともあります。あとは台本に書いてあることがすべてではないと考えられるようになりました。例えばただお茶を出すだけでも、その人は家で家族と喧嘩してきたかもしれないし、すごくハッピーなことがあったかもしれない。それでお茶の出し方は変わるよねと。そういう裏設定の考え方、想像の膨らませ方を倉本さんに教えていただいて、広く捉えられるようになって、答えはひとつじゃないんだなと教えていただきました。

――中学生からお仕事をしている清野さんですが、学業との両立はどうしていましたか?

清野 学業との両立は相当の努力がないと無理だなと思いましたね。私はできなかったです(笑)。私が通っていた学校はすごく特殊で、授業でドラム、ギター、ピアノ、ダンスもヒップホップ、ジャズ、バレエをやっていたので、仕事で休むと一回の授業で学べないことが多すぎて。ずっとテストに向けての授業なので、それで自分はちょっとひねくれちゃったところがあったんです。でも今は、高校時代はかけがえのない3年間で、もっと勉強面も頑張っておけばよかったなという気持ちもあったりします。

――オーディションに応募された小学6年生から、芸能の道で頑張ろうと決めていたのですか?

清野 友だち3人で受けたんですけど、若いときのノリというか、「一緒に受けようよ」と言われて受けたので、最初はそこまで絶対にという気持ちはなかったですね。でも高校卒業した頃から、これが自分の仕事だと思うようになってきて。大学に進まなかったということもそうですし、この仕事しか知らなかったので、他の仕事に就くことは想像しにくかったです。

――高校を卒業する前と卒業してからで、お仕事への意識は違いますか?

清野 違いますね。学校に行きながらの仕事だと、現場も学校の一環という気持ちになっちゃっていて。だからこそもうちょっと楽な気持ちで、楽しかった思い出のほうが強いんです。学校がなくなったら「もうこれしかない」というか、かなり現実を突きつけられた感じはありました。

――清野さんが学生の頃に夢中だったことを教えてください。

清野 学生の頃は、とにかくジャスティン・ビーバーに夢中でした。私、愛知県の出身だったので、音楽を聴きながら電車通学することにすごく憧れていたんです。高校で上京してきて、電車で何を聴こうかと音楽を探していたら、ジャスティン・ビーバーを知って。最初は女の子かと思っていたら、男の子という衝撃からさらにハマっちゃったんです。もうジャスティンに夢中で、ジャスティンがギターを弾くので、私もギターを弾けるようになりたいと思って高校でギターを始めました。ジャスティン・ビーバーになりたかったですね(笑)。

――何がそこまで清野さんを惹きつけたのでしょうか?

清野 私は高校生のとき、自分に自信がなかったんです。でもジャスティンはピアノ、ギター、ドラムもプロ級に上手だし、ダンスだって踊れるし、歌だって作っていて。でもそれって努力しないと身につかないものだよなと気づいて、その見えない努力のカッコよさやあんなに自信を持ってショーできるというのが、その当時の自分にとって魅力的で。すごくカッコよく見えました。