逃れられない運命だと思い、逃げずにお芝居向き合ってみようと思った

――川添さんのキャリアについてお聞きしていきます。6歳から約12年間、杉並児童合唱団に在籍されていますが、入団したきっかけを教えてください。

川添 子どものころからよく家で歌っていたんです。歌が好きとか意識的なことではなく当たり前のように。そのことを母が知り合いに話したら、杉並児童合唱団を紹介してくださったんです。

――歌に限らず芝居やバレエなども学ばれたそうですが、そこまで長く続けられたのはなぜでしょうか?

川添 シンプルに好きで楽しくてしょうがなかったからです。それしか見えてないっていうくらい、のめり込みました。活動も忙しくて夏休みもほぼなかったり、地方公演やメディア出演もする団体だったので、小学生ぐらいからほとんど家にいない生活でした。それでも中学3年生くらいまではまったく苦にならなかったです。

――高校入学から意識の変化があったということですか?

川添 高校からは地元を離れて私立に行ったんですけど、そこが自由な学校で、個性的な人が多かったんです。高校に入学して初めて、「舞台や芝居が楽しいことは知っているけど、それ以外のことは何も知らない」ことに気づいて、途端に息苦しくなって、合唱団が楽しくなくなってしまいました。あとは、それだけ続けた中で自分に限界を感じたというか、自分より上手い人が周りにたくさんいたので、これ以上続けても何か変わるんだろうかと。高校生になって、自分がこれから何者になっていくのかみたいなことを考え始めた時期だったこともあって、一度ここから離れようと思いました。

――そして18歳の高校卒業を機に合唱団を退団、その後は多摩美術大学に進学されます。

川添 本当は表現というものから離れたかったので、当初は留学を考えていました。でも、私の友達に小さいころからずっとタップダンスを続けている子がいるんですが、その子が大学でもっと表現のことを勉強するために芸術系の大学に進んだことを聞いたとき、あれだけ離れたいって思っていたはずなのに離れることに違和感を抱く自分がいて。それが高校3年生の秋で、もう指定校推薦が決まり始めている時期だったんですけど、「やるしかない」と思って片っ端から表現ができそうな大学に調べて多摩美に決めました。

――ご両親の反応はいかがでしたか?

川添 小さい時から慎重派ですが、思い立ったときのスピードが凄く速いので多分諦めていたんだと思います。何かをやってと言われても、自分のタイミングが来ないとできないタイプなので、自由にさせてもらいました。でも、「自分の責任は自分で取りなさい」ということは子どもの時から言われていました。

――表現のために多摩美に入られましたが、そこからなぜ、女優の道に進もうと思ったんでしょうか?

川添 きっかけとしては多摩美の教授だった青山真治監督と出会ったことです。青山さんのことが好きで多摩美に入る人もたくさんいて、私ももちろん知っていました。学内で青山さんに声をかけられて、「ちょっと出てくれ」と言われたり、青山さんが手掛けるドラマに呼ばれたりして。声は掛けてもらったものの、最初は全然仕事にするつもりはありませんでした。

――芝居することに抵抗はありましたか?

川添 お芝居自体はきっと好きなんだろうなという自覚はあったんですけど、私の実力で仕事になるとは思っていなかったです。でも、あれよあれよと2年間くらい続けていたときに、これは逃れられない運命だと思い、逃げずにお芝居に向き合ってみようと思いました。

――その時、自分の将来についてはどう考えていましたか

川添 将来のことはわからなかったです。本当に思い立ったら動くタイプで、正直、明日の自分のこともよくわからなくて、想像つきにくいというか。日本だけに留まらないで国境を越えていきたいとか、家族を持ちたいとか、そういうことは漠然と考えてはいたんですけど、なるようになると思っていました。