ターニングポイントになる激動の時代を描いた舞台
――「hana―1970、コザが燃えた日―」の台本を読んだ印象はいかがでしたか?
松山 コザ騒動自体を僕は知らなかったので勉強になりました。1970年当時は沖縄返還前でしたので、沖縄の人たちが日本に対してどういう思いを抱いていたのか。戦後に戸籍をなくして、寄せ集めの家族を作って、給付金をもらって。そうやって生きてきた家族のストーリーに驚きつつ、激動の時代の中で、血は繋がっていなくても、やっぱり家族だなと思ったし、人の温かさや、幸せのようなものが感じられて大好きな台本でした。
――コザに行かれたことはありましたか?
松山 ロケで行ったことがありましたが、当時はコザ騒動やAサイン(※返還前の沖縄で米軍公認の飲食店・風俗店に与えられた営業許可証)も知らず、撮影に行っただけでした。ただ二十歳ぐらいの時に、映画『男たちの大和/YAMATO』(2005年)に出させていただき、戦艦大和のことを調べたり、靖国神社に行ったりして、戦争について考える機会がありました。その直後に、初めて沖縄に行くことになって、ひめゆりの塔に行って。そこで、アメリカに蹂躙された様子がまざまざと浮かんで、僕自身がダメージを受けて、最後まで見ることができませんでした。資料館には手紙などもあったんですけど、苦しくて見ることができなかった。その時に沖縄の大変な歴史を知りました。一般的な沖縄のイメージって、暖かいみたいな感じだと思うんですが、僕にとっては歴史的に悲惨な出来事があった場所というイメージも強いです。
――松山さんは主に映像を中心に活動をされていますが、舞台というものをどのように捉えていらっしゃいますか?
松山 体調管理をシビアにやらないといけない仕事です。映像のように、ワンカットにすべてを込めようとか、このワンカットを乗り切るということではない。また映像は照明や衣裳、メイク、カメラワークなどと協力して一つの表現ができ上がります。もちろん舞台も衣裳やメイク、セット、美術、照明はありますが、役者が表現する幅が広い。だから、どれだけ個人としての力があるのかを試される場だとも思っています。
――この取材の時点(※11月下旬)では、まだ稽古前とのことですが、舞台に向けて意識されていることはありますか?
松山 今は特にないですね。稽古に入って、これがしんどい、あれがしんどいというのが具体的に分かってきてから、稽古期間中にできることをやって臨むという感じです。あまり先回りするのが好きじゃないんですよ。早くから準備したことで、逆に納得して見えなくなることも出てくると思うので、あまり余計なことをしないです。
――今回の舞台に向けて松山さんは、「この作品、キャスト、スタッフと出会うことで一つのターニングポイントになると思います」とコメントされていましたが、どういう気持ちからの言葉だったのでしょうか?
松山 どの作品にも、ターニングポイントになる部分はあります。台本や、そこで出会う人たちから得られるものはたくさんあって、人生の考え方や生活の仕方などが、どんどん変化していきます。自分にとって家族は大事なもので、この作品の血の繋がっていない家族からも、たくさんのものをいただけるなと思ったし、自分自身の栄養として、ちゃんとインプットしていきたいなという気持ちからの言葉でした。
――松山さん演じるハルオに共感した部分はありますか?
松山 それがないんですよね。名前も生まれも生年月日も分からないまま育つっていうのはどういうことなんだろうかと。やっぱり、その立場にならないと本当のところは分からない。でも今の人たちとも共通しているのは、たくさん傷ついてきたということだと思います。ですので、そこは上手く表現したいなと思っています。