尊敬する先生からの言葉で大学進学を決断
――ミュージシャンになるまでの経緯をお聞きします。広島から上京して東京の大学に進学されたそうですが、どのように進路を決めたのでしょうか。
寺岡 地元の広島にいたときから音楽をやっていたんですが、東京に行くことも含めて進路については悩んでいました。そんなときに文化祭の準備をしていたら、尊敬する先生から「車で資材を取りに行くから付き合ってくれ」と声をかけられました。担任ではなかったんですけど、僕の将来のことを気にしてくれていて。それで「お前は音楽をやりたいのか?」と、親も触れてこなかったことを、ストレートに聞いてきたんです。
――先生は寺岡さんが音楽をやりたいことをご存知だったですね。
寺岡 文化祭の顧問をやってくれていたので、なんとなくは分かっていたと思います。自分は心の底から音楽をやりたいのか、それとも「逃げ」でやりたいのかすらも分からない時期だったので、先生の質問にハッとしました。それで「俺は甘えてたのかな」と考えていたら、先生が「大学に進学すれば、自分の将来を考えられる時間の余裕ができる。いきなり就職すると、その道だけになってしまう。少しでも音楽の世界に行きたい気持ちがあるなら、大学に行くのを勧める」と言ってくれて、すごく自分の中で気が楽になって、大学進学を決断しました。
――先生の一言が大きかったんですね。
寺岡 きっかけというのは大事だなと思いました。その先生とはいまだに付き合いがあって、もうお仕事はリタイアされていますが、広島でライブをする度に見に来てくれるんです。
――親に音楽の道へ進みたい気持ちは伝えましたか?
寺岡 音楽でやっていくことに全然説得力がなかったので、とりあえず東京に出るみたいな感じで、はっきりは伝えなかったです。
――東京に対する憧れはありましたか?
寺岡 弟が中学生のときから東京の学校に行っていたので、僕も行くものだと勝手に思っていました。それに当時は、音楽をやるなら東京しかないという思い込みもありました。実際、東京に行ってからは毎日のようにライブハウスに行って、いろんなバンドを見て刺激をもらいました。結果的に大学にほとんど行かず、途中で辞めました。
――ジュンスカ(JUN SKY WALKER(S))のメンバーとは、どのように知り合ったのでしょうか?
寺岡 弟が通っていた学校の先輩にジュンスカのメンバーがいたんです。僕は違うバンドで活動していたんですが、金魚のフンみたいにジュンスカにくっついてライブハウスを回ってスタッフのようなことをしていました。それこそ寝食を共にしたと言っても過言じゃなくて。そのときに、いろんなバンドの人たちに声をかけてもらって、仲間がたむろしている飲み屋にも連れて行ってもらいました。下っ端中の下っ端でしたけど、このために東京に来たんだという実感がありました。
――1988年2月に寺岡さんはベーシストとしてジュンスカに加入して、5月21日にミニアルバム『全部このままで』でメジャーデビューします。それから、あっという間に人気を博していきますが、その時点で音楽を一生の仕事にしていこうという気持ちはあったのでしょうか。
寺岡 デビューして分かったのは、何の保証もない世界なんだということでした。でも音楽が好きだから、ずっと音楽に携わりたいなとは漠然と考えていました。
――当時は空前のバンドブームで、中でもジュンスカの人気は圧倒的でしたが、それでも「何の保証もない世界」と冷静にとらえていたんですね。
寺岡 僕みたいなタイプは珍しかったかもしれないです。最後にジュンスカに加入したという点で他のメンバーよりも出遅れていたので、下積みもなかったですし、不安だったのかもしれません。
――それから30年以上、音楽を続けてこられたのは何が大きいと思いますか?
寺岡 好奇心でしょうね。好奇心を常に持っていると、その好奇心によって、次が開けるというのが大きいかもしれないです。